悠希会 藤原琥山 
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悠希会

平成12年1月12日【転入院】

薬1

大学病院から送り込まれてきたボクは、どうもやっかいな患者であったみたいだった。

というのは、ボクにされていた治療で、一般の病院ではあまり行われないような治療がいくつかあったからだ。

それゆえ、ボクには写真のように、いろんな注意事項を貼り付けられていた。

大学病院からボクをあつかってる以上なにかあってはいけないので、結構主治医や受け持ちの看護師さんにボクは大事に扱われていた。ここでも、医者と看護士さんには恵まれていた。

1月13日【後期授業開始】

点滴

今日から大学に通うことになる。

朝8時頃、主治医が着てくれてヘパロックをしてくれる。

そして、首のカテーテルの入っているところをガーゼとビニールテープでとめて、口にマスクをして、ポケットにうがい薬を入れて、病院から車で大学に通った。

授業は昼過ぎに終わったので、そのあとすぐに病院に戻ると,すぐに点滴につながれて、注腸ステロイドをしてもらうという毎日であった。

今日は有機化学の中間テストがあった。そのストレスだろうか、テストが終わってトイレに行くと過去最高の大量下血をしてしまった。

【後期授業期間中】

大学にて体力が極端に落ちていた。

入院前は、62.4kgあった体重も54.5kgまで落ちていた。

明らかにステロイドの副作用で、筋肉が落ちているようで、点滴をはずしてもらって大学に行ってはじめてはっきりと体力の落ちを感じた。

それまで平気であがっていた階段が上がれなくなっていて、さらに、売店で棚の下のものを取ろうとしてしゃがむと体を支えきれなくてしりもちをついて倒れてしまうほど体力が落ちていて自分でもビックリした。

体重が10kgも落ちて、マスクをして首にガーゼをあてて、顔がムーンフェイスになっている変わり果てたボクを見て友達はビックリしていた。中には事故でムチウチになったと思ってる友達もいた。

 

平成12年1月26日【後期授業終了】

この頃、今後のことについて担任の教授に相談をしていた。

ボクはこれ以上この状態で大学生活を続けて行くのは無理だし、また、いつになったら病気が良くなるのか分からない状態であったので退学するつもりでいた。

しかし、一度退学してしまうと再入学するのは非常に難しく、教授会の審査にかけられ、その審査に通れば再入学が認められるということであった。

休学の場合であれば審査がなくても復学できるが、休学中の学費を払わなくてはならない。

いつ治るか、あるいは本当に治るかどうか分からない状態であったのでそれはできなかった。

教授はその内容を学部長と話し合ってくれ、その結果、学部長がボクのような場合、再入学は認められるだろうと言ってくれた。

ただし後期試験の成績が重要視されるということであった。

そして後期試験をクリアーしておけば、いつか戻ってきたときには2年生から始められるということであったので後期試験は何が何でもいい成績でクリアーしなければならなかった。

1月31日【後期試験開始】

成績ボクは絶食であったのですることは寝るか勉強しかなかった。

ある意味やけくそで勉強しまくった。

朝夜関係なく眠たくなったら寝て目が覚めたら勉強していた。

夜は、病室では勉強できないので、夜間閉鎖中の談話室で腰から下に電気毛布を巻いて勉強していた。

看護婦さんがファンヒーターをもってきてくれるときもあった。

それからナースステーションで勉強させてもらう時もあった。

そのときいた医者がボクの勉強している姿を見て「なつかしいなぁー」と言っていたが勉強は教えてくれなかった。

やけくそで勉強した結果、成績優秀者で貼り出される教科もあった。

2月9日【後期試験終了】

今日で後期試験が終わった。

大阪から母親が来る日であった。

かなり心配してくれていたので、もっと早くに来るつもりでいてくれたが、テスト勉強をしないといけなかったので、テストが終わるまで来るのを待ってもらっていた。

電車にほとんど乗ったことのない母親が飛行機と電車で乗り継いで神奈川の田舎まで病気の息子を見舞いに来る姿はさすがにかわいそうであった。


とにかく無事にすべての教科をパスしたので、あとは退院して、大学に退学届を出して大阪へ帰るだけだった。

平成12年2月17日【流動食開始】

試験も無事に終了したので、食事を開始することになった。

まずは流動食からのスタートだった。

IVH点滴もアミノトリパ1640kcal/dayから1320kcal/dayに減らされた。

2月18日

注腸ソルコーテフ終了


今日からちょっと風邪ぎみ

2月19日【北里大学東病院消化器内科外来受診】

先生に無事に大学の試験をのりきったことを報告した。

先生は「おめでとう!よくやった!それを待ってたよ!」と言ってくれた。

その為に先生はボクを転院させてまで大学に通わせてくれていたので、ほんとうに喜んでくれていた。

そして、これでいったん大学を辞めて大阪に戻ることを伝え、先生に紹介状を書いてもらった。

1月20日【3分粥】

今日から3分粥になった。

2月21日【IVH終了】

IVH

ずっと微熱がひかないので、もしかするとIVHのカテーテルからの感染によるものかもしれないので抜くことになった。


写真は抜いたカテーテルです。

長い間入っていましたが、やっと開放されました。

 

 

 

2月22日【抗生剤の点滴開始】

2月24日【原因不明の熱】

今日から5分粥になった。熱はまだ引かない。

なぜか、朝から熱が上がり始めて昼前に下がるという現象が毎日続いた。

原因が分からなかった。

【原因不明の熱に関するボクの見解】

多分、栄養障害のようなものであったと思う。

退院してからもよく原因不明の熱を出していた。

熱が出ると食事をするのが怖いからいつも控えていた。

あるとき外出先でもこの熱がでてきて、こわくなったので、逆にオニギリを食べると一気に熱が引いていった。

その後も熱が出たときにご飯を食べてみると熱がやっぱりひいていった。

このときもそうだったのだと思う。

2月26日【24時間持続点滴開始】

この熱が引かないので、食事のせいだと判断して、またまた絶食となった。

もちろん絶食にしても熱はさがりませんでした。

2月28日【抗生剤を変える】

熱が下がらないので抗生剤を変えた。しかしこれもヒットしなかった。

平成12年3月1【誕生日】

今日はぼくの誕生日ということで、主治医からプレゼントに新しい抗生剤をもらった。

名前はクラリス錠。

非常にお高く頭のいいお薬ということだった。

3月3日【恐ろしい栄養剤を飲んでしまう】

ツインラインという栄養剤で、本来ならエレンタールやエンシュアを飲むはずですが、病院になかったので、他の病気の患者に使う栄養剤のツインラインでしのぐことになった。

その結果恐ろしくお腹を壊してしまい、簡易トイレをベットの横においてもらわないといけなくなった。

3月4日【流動食再開】

クラリス錠がヒットして、熱が下がり流動食再開することになった。

3月月17日【退院】

富士山1朝から病院をぬけて引越屋さんに下宿先の荷物を運んでもらいに行った。

そこにいつもお世話になっていた大家さんも来てくれた。

大家さんにとってボクの印象がよかったらしくボクが病気で大学を辞めて出て行くのをみて最後の最後まで泣いて見送ってくれていた。

そのあとボクは病院に戻って退院の手続きをして、お世話になった主治医と看護婦さんに見送ってもらって母親と二人、車で病院を後にした。

ココから大阪まではまるで旅行であった。写真は途中富士山をバックに撮った写真です。

ボクは入院中ずっと受持ちの看護婦さんに「帰りしなに浜名湖でぜったいにうなぎを食べるねん」と言っていた。

というのは、ぼくの病室の窓から見えるむかいのお店に”うなぎ”と書いたのぼりが立っていてそれをずっと見ながら、絶対にうなぎを食べようとおもっていたからでした。

そしてその願いは無事に達成されました。

3月19日【甲田医院の扉を開く】

現代医学において、内科的治療は限界に達し、外科的治療の決断を迫られていた状態で、この先の治療を西式甲田療法にかけることにした。

この日、帰る途中に下見のため甲田医院に立ち寄った。